『あなたの活躍を祈っているわ。長谷川さん』
祐理が、僕を名字で呼んだ事が彼女なりの決別の意思表示なのだと思ったが、あえて……いや、だからこそ僕はそれを無視した。
「祐理さん!わけがわからないよ!ちゃんと説明してよ!」
『……ごめんなさい』
祐理はそれっきり、僕の電話に出ようとはしなかった。
2ヶ月の海外出張から帰国した僕は、真っ先に祐理の職場へ押しかけた……りはできなかったが、何日もしないうちに取引先として顔を合わす機会があった。彼女は戸惑う素振りも見せずにお愛想して去っていった。
――僕は何故このような仕打ちを受けねばならないのか、全く理解できなかった。
帰国後、憔悴した僕を見かねたのか職場の先輩が「お疲れ様会」と称して飲み会に誘ってくれたものの、食い物が喉を通らない。紛れもなく腹は減っているのだけれど、胸につかえて呑み込めないのだ。自分でも笑ってしまうがどうしようもない。
先輩には申し訳なかったが、僕は自分の悪酔いに気が付いたところで早々に退席するのが精一杯だった。
自室に戻り、循環するしかない思考と空きっ腹の酒で痺れた頭を壁にぶつけたまま、僕は茫然自失としていた。
(世界など滅んでしまえば良いのに)
自分でも訳のわからないことを考えている。そう自嘲した時、誰かの声が聞こえた。
「3つだけ願いを叶えてやろう。お前の魂と引き換えに」
振り向くと、声の主はテディベア。……祐理が出張前に残していったものだ。
学生の頃だって、こんなひどい酔い方はしたことがない。
だって、テディベアが立ち上がって話しかけて来るなんて、今時少女マンガでも在り得ない。
「あんた、誰」
「我輩は悪魔である。これは世を忍ぶ仮の姿である」
「そうか、じゃあ、世界を滅ぼしてくれ」
「よいか青年。願い事とは、もっと具体的じゃないとダメである。それにあと1万年もすりゃ勝手に滅ぶのだフハハ」
「冗談ならとっとと帰ってくれ、地獄でも魔界でも」
「生憎、冗談ではない。それも無効であるな」
「……じゃあ」
祐理と話をさせてくれ、僕は戯れにそうつぶやいた。我ながら情けなくて泣けてくる。
「お安い御用だ」
「?」
その直後、メールの着信。……祐理からだ!
《この間はごめんなさい。あなたの言う通り、きちんとお話すべきだと思います。また連絡します。祐理》
僕は、突然のメールにそれこそ心臓が止まるほど驚き、そしてどうしたらいいかわからず狼狽したが、とりあえず自分の気持ちを静める事に努めた。
「まず、1つ目であるな」
「……偶然だろ?」
「おお、人間というのは何故そうも疑い深いのか?」
「じゃあ、酔いを今すぐ醒ましてくれ」
「お安い御用だ」
「!?」
確かに、目が覚めたように頭がスッキリした。完全にシラフだ。
「2つ目であるな。やっと信じる気になったかな?」
――どうやらこりゃただ事じゃないぞ。うまくすれば祐理のことも……
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「お安い御用だ」
「え?」
「それが3つ目の願いであるな」
「いや、そうじゃなくて、取り消し、いや、じゃあ願いをあと3つに増やしてくれ」
「取り消しも追加も禁則事項である」
そ、そんな……。何と言う事だ……。
「では約束通り魂をいただく前に、説諭である。心して聞くがよい。
これは、人間の言葉であるが、幸運の女神は前髪しか生えていない」
「振り向いたら、通り過ぎる前に前髪掴んで引き倒すしかない、ってことか」
「解ればよろしい」
「魂取られりゃ……死ぬんだな?」
「無論」
在り難いお言葉であるが、今更ってことか。つまらん人生だったなあ……。
「では我輩はこれにて」
「え、魂は?」
「魂を刈るのは死神の仕事である」
「へ?」
「奴もなかなか多忙ゆえ、申し訳ないがしばらく待たせる事になろう。
せいぜい百年くらいの内には順番が来るであろうから、それまで短い余生を愉しむがよい。さらば」
座り込むテディベア。
……僕は我に返ると携帯を掴み、祐理の番号をコールした。
「もしもし、祐理さん?メールありがとう。明日、時間とれますか?ええ、午後……」